昭和47年8月20日 夏季大祭 ●④ 大坪かよこ
夏の御大祭を無事に、願うてもないような良いお天気に恵まれて、只今、お祭りも終わらしてもらい、御直会としての阿部先生のお話を頂きました。
先生が仰っておられますようにこの祈願祭というのは、もう、九州、しかも桂先生の信心の流れを頂く教会でのみ行われる御大祭です。
しかもその、性格が願いということに中心が置いてある。いわゆる、大祈願祭ということなんです。
ですから、その桂先生の御信心の御内容、只今も先生が仰っておられましたように、教祖金光大神様の御信心の内容に触れて行かなければ、信心ではないと、ね、ただ拝む、参ると言うだけでは信心じゃない。
桂先生の御信心の御内容に触れて行かなければ、今日の御大祭の意味もあやふやなものになってくる、わけであります。
その桂先生の御信心の内容に中々して私どもが触れるということは、至難なことでございましょうけれども、やはりそこのところを追求し、求めさせて頂くことが、だから信心だと私は思うです。
まあ、聞き伝えさせて頂いたり、また先生の御伝記を読ませて頂いてから、大体のことは分かります。
けれども中々、それが実感として、桂先生という方はこういう信心をなさった方だというようなことは、なかなか実感として受け取ることがでけません。
まあ、例えて申しますと、ある時に桂先生が、ある大変な難儀な問題、これは御自身についての難儀な問題であった。
そのことを神様に一心におすがりをして、どうぞそのことをおかげにして下されいというてお願いをなさっておられた。
そしたら桂先生のご心願に映じたものは、ね、お野菜のネギが一把、どうぞおかげにして下されいと言うてお願いをして頂いておったら、ね、ネギのお知らせを頂いたが、どういうことであろうかと思うておられると今度は、ね、心眼、神前に滝がずーっと、しかもその内殿の天井を突き破る勢いで滝が伸びて行くところを頂かれたということである。
ね、そこでです、ね、桂先生が悟られた。信心は悟りです。
ね、自分が今願うておることは先に見せて頂いたちょうど白ネギのようなものだ。
ネギのようなものだ。今桂松平、汝が願っておることは、まあ、神の働きを持ってするなら、今んでも聞き届けてやってもよいほどしにいうなら見やすいことだと。神の力を持ってすれば、ね、けれどもそれはそれまでのことなんだ。
今のそのこと、今、汝が願っておるところの難儀の問題をです、ね、それを修行と思って頂かせて頂いたら、ね、いわゆる滝のように素晴しいおかげになろうぞ、というお知らせだと悟られた。
私の願いが間違うておりました。ただいまの願いはお取り下げさせて頂くと仰しゃられて、その願いを真っ向から受けて立たれたというお話がお伝記に残っております。
●④ ね、ま、これに良く似たお話が私の信心過程にもあります。
あちらこちらに信心のお話をして参っております時分でした。
北野の教会に泊まりがけでお話をしておった時代でした。
もう実は私一身上のことで、もう大変難儀な問題であった。
そこでお話をした合間合間にはやはり、そのことが気になりますから、願わせて頂いた。そしたらね、お三宝にま、見事な大根です、大根、お野菜の大根が一台お供えしてあるとこを頂いた。ご心願に、ね、そしたらね、今度は次にゴボウのね、長いままをやはりお三宝に、次に一台こう、お供えしてあるとこを見して下さった。
どういうことであろう、ね、そこで私はそれをこう悟らせて頂いた。
大根というのは、もうあれは苦労なしに育つものである。色も白うしとる。ね、たいして、ま、お役に立つというても、お惣菜か御漬け物とかというくらいなこと。
けれども次に頂く、その長い長いゴボウは、長く苦労をしておると。ね、長く苦労しておるでしょう。そう私は悟ったです。
ははあ、長く苦労をするということは素晴らしいことだと。それは信心ではそれは苦労とは言わん、信心の修行である。
みんなが苦労を厭いますけれども、ね、その苦労を修行に頂いていかなければいけない。長おう苦労しておるから、役に立つと悟った。
大根は白うしとる。苦労しとらんから、ね、その場でいうならば、食べもされりゃ、頂きもできるんだけれども、ね、桂先生のネギとまあ、同じような意味なんです。
ね。そして今苦労だろうけれども、この苦労が長う続けば続くほど、そのゴボウというものは、ね、どのような御用にでも使われる。
ね、お惣菜には勿論、ね、仏事ごとにも御祝儀ごとにも、お野菜を使うというなら、ゴボウを使わないお野菜はないと言われるくらい。
ね、御用の範囲が広いのである。
ね、ですからその苦労は有難いことなのであります。そういうお役に立たせて頂けれる力を、今こそ頂いておる時だとお礼を申し上げさせて頂いて、なるほど苦労の時にはそれはきつくもある、つらくもあるけれども、けれども、やはり有難い。
ね、先ほど仰った、木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言う心持になれよと、木の切り株と言や、もう、いうならばいらんもの、いやむしろ邪魔になるようなもの、それにでもやはり腰を一辺掛けたなら、やはりお礼を立つ時にはいうぐらいな心持が信心さして頂く者にはいるんだと。木の切り株どころではない、それは、肉眼を持ってみれば、難儀苦労のように見えるけれども、心の目を持ってすると、神様が力を与えたい、力を与えたいの一念が、そういう長い苦労になっておる。
そこでここで私どもが分らして頂かなければならないことはです、そんなら金光様の御信心を頂いて、長う苦労さえしとりゃ良いかと、ね、あっちはもう何十年信心しござる。ね、なるほど、けれどもほんとに金光様の信心しござるけれども、苦労が続く。そりゃもう、そらもう長い長い。そらゴボウになるのかもしれませんけれども、それじゃつまらん。それでん大概いくらなんちゅうたってですね、ここあたりの土井あたりでね、作られるゴボウでもだいたい決まっとる。
三尺、深う掘らんでんよか、ね、だから長う、長う苦労ばかりして、たとえばそこにお役に立つこともでけけない、おかげも頂けないとするならば、これは一つ本気で自分の信心を私は振り返ってみなければいけない、検討してみなければいけないということなのです。ね、桂先生の御信心が、ね、たとえば御内容の一端ではありましょうけれども、私もやはり桂先生の御信心の内容の一端をまあ、分らせて頂いたような気がする。
こりゃまだ、椛目時代でした。私は桂先生のお話をさせて頂いて、非常にみんながか感動した。
善導寺の原さんが、ほんとに桂先生のお話を頂くたんびんに、それこそ血が湧いて肉が躍るようなおもいがする。
あの御修行ぶりという、いいあの先生のいわゆる願いとされておられるところの、この有り難いお道をです、ね、世界万国にも輝かさん、ね、または、ね、佐倉惣五郎は七たび生まれ変わって、この恨みを晴らさねばおくものかというて、死んだそうでございますけれども、これ、私、桂松平は、ね、七たび生まれ変わって道のために働かしてもらいます、尽くさせて頂きますと四神金光様にお誓いをなさったというね、話を聞かせて頂きますと、私どもの小さい信心をさせて頂いておるものが頂きますと、ほんとにやはり感動致します。ね、そういう、いわば桂先生がどのような御修行をなさってそういう大きな願いにお取り組みになられただろうかと、御理解を頂いた後に思われたら、ご心願に頂かれた。
一生懸命にね、あの、おばやけというのがある。ね、鯨の皮を、今はもう、ちゃっとはぐらかしたやつをビニール袋に入れてから売ってますけどね。
昔はそうではなかった。鯨の皮を薄く切ったやつを、それこそ熱い熱湯をくぐらせたり、または冷たい氷のような水をくぐらせたり、そして抜けるだけの油を抜かせて頂いてあのしゃきしゃきするような、おいしいおばやけができるように、人間も改まろうと思うても改まれん、磨こうと思うても磨かれない。
けれどもそこに本気で私どもが、ね、本心の玉を磨こう、改まりもさせて頂こうという意欲を燃やすところからです、ね、火の行も、または水の行もいとわんというほどしの心が生まれて参ります。
いや、その信心修行が楽しゅうなって参ります。
ね、そういう修行を経て、初めて人間臭というか、こりゃ、もう人間じゃけんこれくらいのことは当たり前といったようなものがです、いや、こういうものがあっては、おかげは受けられまいと分ってくるのである。
ね、原さんがそういうお知らせを頂かれた。ね、結局は火の行、水の行をさせて頂きながら、自分というものの悪を抜くことなのだ。ね、いうならば、人間が二人見るように変わらなければいけないと。これは持って生まれた、ね、みつごの魂は百までというようなことで一生を終わっていく人がどのくらい多いか分かりません。
まずほとんどではなかろうかと思う。ね、信心をさせて頂くものはです、ここのところに私は思いを置いて信心修行をさせて頂かなければいけない。
ね、昨日の朝の御理解に、信心とはわが心を神に向かうのを信心というのじゃと。
これが教祖生神金光大神の御内容に触れて行かなければ、ここが分らん。
信心とはわが心が神に向こうて一歩一歩近寄って行くのだと。信心とは。
ね、その御理解の一番最後に、信心なければ世界は闇なりと仰せられております。
ね、わが心が神に向こうのを信心というのじゃと。は、今日は合楽の御大祭だから、お参りをしょうかと、たとえば初めてお参りをした人が、足を向けてくる。いや、そのこともやはり神に心を向けてきたことでありますから、ね、ある意味ではやはり信心でありますけれども、教祖の神様が本当に信心と仰るのは、そういう足の向け方ではない。そういう姿勢ではない。
教祖の神様が、ね、信心とはわが心が神に向こうのを信心と仰るのは、信心なければ世界は闇なりと仰るように、信心ということは、自分の心に光を受けることだ、頂くことだということなんです。
も、これは、ね、だから、今日は合楽にお参りしょうか、それもやはり心を向けて、ね、来ますから、お願いをすればおかげは頂きます。
けどもそれは、おかげを頂くだけであって、信心を頂くということにはなりません。
ね、自分の心が救われ、助かるというこにももちろんつながりません。
ね、どこまででもまずは自分の心の中に光を頂かなければならん。
信心とは自分の心の中に光を頂くことなんだ。
ね、私は昨日、このことを、このことを頂いて、初めてそういう表現で頂いて、はあ、なるほど教祖が神に向かうということは、ね、自分の心の中に、ね、信心の光がともり、しかもその光がだんだん大きくなって自分の心だけではない、家庭だけではない、自分の職場だけではない、それが世界中に広がっていくほどしの光になっていくということが、金光大神の御信心の御内容であります。
ね、和賀心時代を創る、ということは、とりもなおさず自分自身の心の中に光を頂いて、その光を持って周囲に潤いうていくということ。
ね、信心がなければ世界は闇なり、今どれほどのお道の信心信奉者があるか、いや、あることは沢山ありましょうけれども、果たして、なら信心とはわが心が神に向こうのをとか、信心とは自分の心に光を頂いて、その光を大きくしていくことだというふうに意欲してそのことに焦点を置いて、いわゆるそういう姿勢で信心をしておるお道の信奉者がはたしてどれくらいあるだろうか。
ね、私どもは願いをいっぱい持っておる。
願わなければおられない。自分がいよいよ無力であることが分れば分るほど、おすがりしなければおられない。
ね、そこでです、ね、その願いにカツを入れる、願いに筋金がはいる。いわゆる真実の願いは、願いそのものの光に照り返されて願いは、必ず自然の内に成就すると。
これは十日ばかり前の御理解です。
ね、真実の願い、本当の願い、ま、いうならば神様が喜んで頂くほどしの願い。
ね、桂先生あたりの願いが、なるほどその願いに、その願いそのものが持つところの光に照り返されてご自身の光になっておるということが分りますですね。
ね、どうぞこの有り難い信心を世界万国に広めさせてもらえるほどしのお役に使うて下さいとか、ね、それこそ二度びっくりと言われるほどしの、たとえば、ご本部の御本社をご覧になって、ね、ご造営をたとえば思いたたられる願いというようなものがです、ね、神様のお心を動かさないはずはなかったわけであります。
ね、私どもはね、たとえば私はここいく日か、この祈願祭に、ね、もうとにかくあるとあらゆる願いをさせてもらおう。
けれどもそのありとあらゆるその願いに、ね、その願いが光を持つほどしの願いにしていかなければいけない。
ね、商売繁盛もいい、健康のおかげを頂くこともいい、ね、もう私どもが難儀と感ずる難儀のそのすべてを神様におすがりし、おすがりしたからにはおかげを受けなければならん。ね、そこでその願いの中心になるところ、その願いをです、ね、本当の願いにしていななければならん、ところに信心の稽古が必要なのであります。
先日、十三日会に東京の支部長であります久保山稔さんが参っておりました。
十三日会にちょっとその時には時間がありませんでしたから、支部長さんだけがみんな発表しました。
それぞれに素晴らしい発表がありました。
なかに私は稔さんの発表を聞かせて頂いて、感動した。
ね、ま、久保山といや、善導寺でも、ま、名門と言われる、それが、明善高を中途でやめて、そして寿司屋になろうと決心して、東京へ行った。もう大体はこの左利きですから、左利きのものが右に包丁を持つだけでも大変な苦労だったと言うております。
ね、それでいてです、たとえば天皇陛下にも握ってさし上げられる、東京の知名な人達が、稔さんの寿司を食べたいと言ってわざわざ今の四谷のお寿司を食べに来て下さる。
先日からは、あれは高松宮様のお宅に呼ばれて、二葉寿司全部そこでお寿司を握りに行くほどしのおかげを頂いた。
ね、それが五年経ち十年経ちしてもう自分もいよいよ手に自信もできるほどしの仕事を覚えた。ね、お客さんも幾人かの方達がね、あんたが店を出すなら、力を貸そうと言うて下さる方達も幾人もあった。
だから、帰ってくるたんびんに、今年あたりはどうでしょうか、今年はもうどっか店でも出させて頂いていいでしょうか、というてお伺いをし続けて十七年間、はあ、まーだ、まだでしたよ。
私はこれも私は真似がでけんと思うね。十七年間でしたよ。あの小僧から職人になってそしてから、十七年間、そりゃもう親先生そげん言いなさるばってん、出すちゅうた時もありました。
けれども両親がね、親先生のおっしゃることじゃから、絶対間違いなかて、だから辛抱せんの、辛抱せんのというて十七年間辛抱させました。
ね、十七年目に始めて良かろうというて御許しを頂いたときには、もうそれこそです、おぜん立てがでけておるところに座るばっかりというおかげを頂きましたよ。
ま、それから、まあ、大きなあの表現がちょっとですけどね、もうそれこそ、もう稔さんの店へ店へとみんなが集まって来たんです。
良いお得意さんたち、しかもその客筋が良いんです。ね、まだ四年でしょうか、ね、けれども、もう、支店を出させて頂くと言うところまでおかげを頂いとります。
ね、甘木の安武先生が、ね、七年間も、小倉で修業をなさった。
もうそれこそ修行したら早う布教に出たい。早う出たい、出たいというて、いうものがほとんどなのにかかわらず、安武先生は、ね、いわゆる親先生がおひとりで大変だ、教会が自分がおらなければ大変という、その親思いの一念がとうとう七年間辛抱された。
そしてまだ見ぬ、知らない甘木の里に布教に出られたときにはです、ね、もうそれこそ押すな押すなというように人が集まって来た。しかも助かったんです。
ある先生がです、私どもがもう何年にもなるけれど、信者はひとっつもでけん。
けども安武さんがとこはどうしてあげん人が助かるでしょうか、ちちからお伺いした。
そしたら桂先生がね、安武はね、舞台裏の修行が長かったと仰った。
だからあの花道に出た、ね、七三でいうならばこう決まった途端に大向こうから、わあーっとこう声がかったようなものだと仰った。
私は稔さんが場合も同じだと思うです。ね、ほんとにね、その間長い苦労をさせて頂くということが、いかに大きな御用を、いわゆる先から申します、ね、大根の、みんなが大根がよかちゅう。もう苦労せんな早うおかげを頂きたいちゅうのは、大根を求めておるようなもの、ネギを求めておるようなもの。はあー大したことはない。
ね、竹のお知らせを頂きゃ、その竹といや、どういう細工物でもなるのである。そのゴボウならばどういうことんでも御用にお使い回しされるところのおかげが受けられるのである。
ね、そういう感動的なおかげを頂かせて頂いて、もう朝から晩まで親先生、親先生、あの人が手紙を稔さんが出します時には、もう二枚ぐらいな便箋に十辺ぐらい親先生ありがとうございますが出てくるんです。
ね、ほんとに十七年間も辛抱した時にはいくらなんでも親先生がいくら言いなさったちゃと言うて思うたこともあったろうけれども、その間に長いゴボウの修行がでけておったと言うことになるのじゃないでしょうか。
ね、しかもそれが的確にただ便便として、長年信心はしておるけれども、おかげが頂かれんというなら、これはおかしいのです。
ね、ですからそこのところを、私は本気で自分の信心を振り返ってみて、なるほど信心はしておるけれども、なら、ね、お礼も申しよります、お詫びもしよります。願いもしよりましょうけれど、その核心を突いてないと言うことである。
いうならば、弓の稽古をするのにです、ただ満月のごと引絞ってから一生懸命こうやっていよるだけのことである。的がなか。
だから信心が一つも上達しない。けれどもここぞというところに的を、たとえば和賀心なら和賀心というところに、焦点を置いてそれに引き絞った矢が、初めの間はなかなか当たらん。ね、けれどもそれが段々、百発百中というように当たるようなおかげを頂いて行くというところにです、信心の楽しみ自分の心に感ずるところの有り難いという度合いが変わってくる。自分の心の中に灯るところの光の大きさが変わってくる。
私は合楽のみなさんの場合はそう思うんですね。先日も大阪のある先生が見えて、ね、わずかのご信者さんなのにどうしてこういうことができますかち、とてもできよるもんだけん、そいで私は申しました。私の方はですね、あの家族がみんな勢を揃えて信心するからなんですよ。ね、親父がお供えしょうちゅたっちゃ、そげん出しなさらんでんち嫁ごがが、信心ない嫁ごが言うたらもうそれまでなんだ。
ね、けれども、一家が、ね、爺さんがすりゃ、息子も嫁も、いや、孫たちまでも一生懸命ですから、孫たちのおこずかいまで一緒にどうぞというようなことになってくる。
ね、だから信者の数は少ないけれども、そういう一家を挙げて、いうならば、親戚を挙げて、信心が段々広がっていっておるということがです、私はこういう力になってくるんだと、私は思います。
ね、それは自分自身の心の中にね、光がでける。その光というものはね、明るくなる。
ね、ですから、たとえば、主人が信心するなら嫁ごが付いてこにゃおられんのである。
なるほど親父が言う通りだというて、ね、息子たちが付いてこないはずがない、というような信心を頂いておるからではないでしょうか、と。いや、そりゃ私あたりでも、そのそうです。そりゃ熱心に信心しますけれども、家族中が勢を揃えて信心するということがありません。それは私は焦点を置かずに間違えてただ、何十年間という長い信心をしておるといったような信心の苦労では、ほんとの苦労は実らない。
ね、いわゆる的確にあったっていく、近づいて行くところの楽しみも喜びもないわけなのです。
ね、そこでです、たとえば、そのいま申しました久保山の四谷の二葉寿司、本店の屋号を頂いて二葉寿司というお店です。
ね、飯台の前に毎朝立たせて頂きます。ね、立って一番に祈らせてもらうことは親先生今日もどうぞ御用に使うて下さい、どうぞおかげを頂かせて下さい、ね、お客さんがほんとに喜んで頂けるような商売をさせて下さい、私はこれ以外に願うたことはないというてこの頃発表しました。
ね、どうぞ商売繁盛さして下さい、でもやはり繁盛するかもしれん。けれどもね、それではその光に潤う、その願いそのものに真実がない。ほら、自分が繁盛すればよか。けれどもたとえば稔さん、とにかく商売をさせて頂くならば、まずお客さんにほんとに喜んで頂く商売をさせて頂きたい。ですからお客さんに向かう姿勢が違う。喜んでもらわなければ帰さんというくらいな願いあがある。ね、そこで店の気分から違ってくる、変わってくる。だから繁盛するんだ。ね、繁盛することを願わんでもこのような信心させて頂いとりますれば、こういうおかげを頂きますという発表をさせて頂いておるのを聞かせて頂いて、なるほどなるほどと私は思わせてもろうた。
ね、そういう願いがです、ね、真実の願いだ。真実の願いには願いそのものが持つところの光がある。
病人がどうぞ健康にならして下さいというだけで、健康になったならただ、あん時おかげを頂いたというだけでしょうけれども、どうぞ健康にならせて下さい、そして、神様あなたにお喜び頂けるような御用にお使い回しの頂けるほどしの健康を頂かせて下さいということになれば、同じ、たとえば病気なら病気の願いにもです、ね、筋金が一本こうとおるんです。ね、いわゆる本当の願いになってくるわけです。
そういう願いを、私はこの祈願祭にさせて頂こうというて、このいく日間言うて参りました。
今日初めて聞いて下さる方は、今日のたとえば祈願祭をね、境に、自分の願いというものが、ね、いわゆる焦点があるかどうかということ。確かめて、ね、そして祈っていかなければならん、願って行かなければならない。
今朝の御理解の中にもいろいろ光りを受けて行く、いわゆる金光大神、今日の先生のお話でいうなら、金光大神の信心の御内容に触れていくということのためには、ね、金光大神が水ならやはり私どもも水にならなければ、油ならやはり油にならなければ一つにはなれない。溶けられない。ね、そこで金光大神の御内容というものがいよいよ分りそれに添うて行く信心はです、ね、いよいよ本気で改まらして頂くということをです、神様に願って願って願い抜いていくという信心、ね。これはまたいよいよ真実の願いになるのです。ね、もう、持って生まれた性分だからと、いうなら、三つ子の魂、百までも持ち続けたのであっては本当のことではありません。
信心は日々の改まりが第一と仰る。ね、ところが実際はこれはもう大変難しいこと。
ほんとに自分の気でも、この腕でも切り落とすほどしに難しいこと。
ね、そこで私は、一生懸命ということはね、もう死ぬることだと私は言うた。自分を虚しゅうすることだと。ね、自分を虚しゅういたしますとです、もう自分の中にある一切が一辺死んでしまうわけです。
ね、枯れてしまう、どういうこれは私は性分だというのでも、消えて亡くなる。死んだら、ね。そこから日に日に生きる信心というものを、頂いていこうという境地。
打ち切るは難し、されど茗荷かな、ね、人間じゃけん、これくらいなものはなかりゃな、というのでなくて、段々信心をさしてもろうて自分の中の光が大きくなってくると、ね、その光に光出されてくるところの部分が分ってくる。
そしてこういうものがあったっちゃ、おかげは受けられんということが分る。
分るけれども、中々打ち切ることは難しい。けれども、それよりもっと頂きたいのは妙賀である。ね、茗荷というのはお野菜の茗荷、ね、それをもじって書くと、よろこびの妙と書く。信心によってのその喜びを受けるということは、それをもっと有難い尊い、また求めなければならないものだということが分ってくるから、これはおしいけれども、もうこういうものを切ってのけたら、もうほんとに人間廃業するごたあることになるんじゃなかろうか、と思うようなことまで、切ってのけていけれることが、楽しゅうなってくる。ね、そこにです、わが心がいよいよ神に向こうて行くということになり、なるほど信心なければ世界が闇と仰せられる意味が分ってくるのであります。
ね、だから今日の祈願祭には、朝の御祈念にみんな参った方にそのことを話したんです。今まで願いのことを、願いに筋道立ててとこう言ったが、ね、それともう一つ、今日のお祭りを境にです、ね、私の心の中から、これを取り除かなければ、こげなこっちゃ、おかげは受けられんと思う、ね。
大連に松山という大変お徳の高い先生がおられた。満洲の大連、ね。そこの総代さんで大変一家を挙げて信心させてもらうけれど、することなすことが、もう、当たらんのです。商売が繁盛せん。それで松山先生はある時の御本部参拝のときにです、三代金光さま御在世のことですから、金光様にそのことの信者一人のためにわざわざお取次ぎを願われた。そしたら金光様がね、こうすればおかげになると分って、こうせんからおかげになりませんと仰ったそうです。
長年信心して総代までさせて頂いたとじゃけん、話しはもう頂くほど頂いとる。そして、おれんとこ一家は、こればいっちょあらたまにゃ、おかげは頂けんことは分っとるもんね。分っとってです、改めない。
こうすればおかげになると分りながら、それをそうせんからおかげになりませんと仰った。鶴の一声、それをそのままその総代さんに伝えられたところが、もうほんとにお徳を受けた金光様の、ね、お徳のお言葉ですから、もうほんとに、こうすればおかげになることが分っておるというその改まりを一家を挙げてなさったらもう、またたくまに繁盛のおかげになったというお話を聞いたことがあります。
ね、おかげがいたり来たりしておる、ぐずぐずしておる、頂いちゃおるけれども何とはなしにおかげがどうどう回りというなら、もういっちょ、ここで本気で踏ん切りを付けさせて頂かなければならん。自分の力ではできるこっちゃない。
ね、自分でその腕を切れ、て言うったって切れるもんじゃないけれども、お願いをさせて頂いていきよると、もう、ああもすんもいう暇んないごと、パーンと切れることがある。交通事故んでもおうたときすぐ切れる。
ね、自分できろうちことはできません。
けれどもお願いをさせて頂いておると、そういうお繰り合わせを頂くんです。は、交通事故にあうという意味じゃないんですよ、皆さん。
ね、自分の心の中にあるです、それがね、ほんとに交通事故んでもおうたごとです、もうほんにしらごっんごと、それを切って取ることができることになる。だから、それを切実な祈り、願いになってこなければならないのです。
だから今日の祈願祭にです、ね、様々な願いを沢山持っておるその願いに、ね、その願いそのものに光が出るほどしの願いに高めて行かなければならないと同時に、ね、肝心要な自分自身の改まるということ、討ちとることは難しい、けれども妙賀がはもっと欲しいのだという信心にならして頂いて、御繰合わせを願わして頂きますとです、神様のおかげで改まらして頂くことがでける。
ね、それを、もうこんくらいなことはやっぱもっとかにゃ、こんくらいなことは、ね、人間じゃけんと言いよったら、願いにもなりません。
ね、そしてここのとこじゃ、これが俺があらたまりすりゃ、おかげ頂くことは分っとるばってんね、ちて一生を終わらんならん。
ね、ほんとに画期的なと申しましょうか、ね、ほんとに大きなおかげを頂かせて頂くならば、そういう私は本気での信心が成されなければいけないと思う。
そういうたとえば難儀であって、私はゴボウであり竹であるところの信心だと思うのです。今朝から、日曜ですから特別報修委員の方達の御祈念会がございました。
その時の御理解に、御信心で、けた違いということを頂いた。
ほほう、ここの美登利会の方達が中心ですから、ね、日曜たんびんに親先生の健康を祈らせてもらうという信心修行なんです。
ね、もうほんとにやはり合楽ではま、婦人部の方達では、より優れた方達の集まりなんです。ね、合楽の魔女と言われるほどしの由縁もそこにあるわけなんです。
ね、その魔女たちに今日私は聞いて頂いたんですけれども、はあ、この魔女たちの信心は、ほかの人の信心とはケタ違いということであろうかと私は思うたけども、いやいやそうじゃないな―、と思うた。
ね、この頃から大阪の秋山先生見えられてからのお話を聞きましたらです、大阪にはね、毎日千人づつのお日参りがある教会が何軒もあろそうです。
ご本部参拝も毎月、二車両づつ出す教会が一軒あるち。
毎月でっすよ。二車両ですよ。女の先生です、ね。
私どもせっかくお取り立て頂いてお道の教師としてお取次の御用に立たせて頂くならば、千人よりもなるほど万人も、また以上もの人が助かっていくおかげを頂きたいなー、とほんとに思います。
いわゆる、合楽の信心とはケタ違いなんです。ね、あなた方の信心が、誰々さんのとはけた違いというのではなくて、私どもの信心は、いつも上を向いとかなければいけない。ね、ほんとにそのけた違いを一辺にということはでけないけれども、ね、一歩づつでもそういう信心に近付かせて頂いて、神様の願いである神願成就、いわゆる、和賀心という時代がです、ね、お道の信心信奉者を中心として、ね、それこそ世界万国に広がっていくほどしのおかげ、それは自分の心の中の光がいよいよ五色光から百色光、百色光から一万色光というような大きな光とならせて頂いて、その光に潤う人達がでけてくるというような願いをです、ね、私は持たなければいけないと思うのです。
ね、大きなことで、世界真の平和ばっかり願うたっちゃつまらん。自分自身の心の中に平和が無くしてどうして平和が祈られるか、ね、自分自身の心の中に光が頂けずして、どうしてその光をよそに移していくことがでけるか。まずは自分自身の心の中に、光を頂くこと。と言うたところで、光が自分の心の中から発電するというわいけではないのです。
ね、お月さまにたとえば光がないように、お天道様の光を得、ね、てリ受けて始めて、いうなら日をも欺くというほどしの、ね、満月の夜なんかは、もうそれこそ、昼のような明るさ、人間でもそうです。人間そのものには、何の力もないのですけれども、ね、あの人は仏様じゃろうか、神様じゃろうかと言うほどしの人の心の中というものは、それはちょうど満月のように心が丸い方なんです。
円満な方なんです。ね、いうならば和賀心の人なのです。だから、それだけの光を受けることができるんです。自分にあるのじゃない、受ける。ためにはまず私どもがいつも暗闇であっては、光はないでしょう。三日月さんには三日月さんだけでしょう。
半月さんだったら半月さんだけの光でしょう。
そこで本気で和賀心、円満な心、ね、去年、ここで修業しました佐藤という修行生が、佐藤宿老のひ孫にあたります。
先日手紙をよこしております。今おばさんの教会に修行に行っておりますが、もうあの時に合楽で修業させて頂いた御理解がいつも私の心の信心の支えであり、芯になっております。ここにおかげを頂きまして二日目か三日目だったでしょう。ここで一生懸命の御祈念をさせて頂きよったら、ここの御神前にいっぱいにです、ね、平和な心と頂いた。
もうそれこそ、もう御神願ちゃ聞いちゃおったけれども、もう、こうやって目を開けておるんだけれども、目を開けても分るちゅう。
しかも先生、平和な心という平という字はですね、一の字を書いて八の字が書いてある。そして十の字が書いてあるという感じの平である。
ね、平たいという字は一、八、十と書いてある。和という字はです、もう鉄筋コンクリートで作ったと思われるような頑丈な和という字であった。
奈というのは奈良の奈という字ですけれども、大きいという字を書いて示すと感じられる奈でしたとこう言う。
心というのは八の字を書いて、また八の字の点々を打ったという心でした。
もう、それがはっきり頂いた。ね、先生どういうことでしょうかと。まあ、これを皆さんに聞いて頂くと時間がかかりますから、たとえばなら和なら和という、教祖様の仰る和の心と言うのはね、たたかれてもどうしてもね、壊れないという心という心なのです。
ね、和賀心の和と言うのは、ね、その和の心をです、ね、大きく示して行けていう、世界に示していけ、自分の周辺に示していく、ね、心という字は、八の八、もう広がりに広がっていくんだ。ここんところの焦点さえ、いわゆる合楽で言われておるところの和賀心に焦点を置いて、すべてのことを御事柄として、成り行きそのものを大事に大切にさせて頂くというような、真の信心から頂けるのが私は和賀心であると。その和賀心を自分の家庭に周辺に、ね、広げて行く、そういうおかげを頂かせて頂くことのための、私は祈願祭であるなあらばです、桂先生の、いわゆる、ね、大祈願祭に、また一段とです、ね、私は、ね、言うちゃ済まんけれどもね、私は桂先生は喜んで下さると。桂先生のたとえばなら、ね、たとえば、ご造営、一生懸命なられた、九州中のたとえば三井教会の、初代の親先生なんかそのためにもう、死を決しられた程でした。
ね、そうした血の出るような浄財を集めて作ったがそれがご炎上になった。ね、その精神たるや素晴らしいことで、御神意、御神慮はどこにあるか分かりませんから、ね、限りがないほどの御神慮の中にありますけれどもです、ね、それこれ考えますと、それで良いということはない。それが育たなければいけないということ。ね、桂先生が願われた願いよりももっと垢ぬけした願いになっていかなければならないということ。ね、お互いが、七条豊凶を誓われた桂松平先生の私こそ生まれ変わりだと、自負できるほどしの信心を、お互いが頂いていかなければならないということ。
ね、そして、ね、何を持ってなら万国に輝かさんと言うかと言うとです、いわゆる、その佐藤君が頂いておる平和な心であり、それをお道の信心でいうならば、和賀心というものをです、私どもの心の中に頂いて、それを広めて行く、ただ金光様の信心しなさい、病気が助かりますよといったようなですね、ことの信者が、どがしこ集まったってもう駄目です。最近金光教の信者が減っているということですけれども、有難いことだと思うです。
そういう信者なら減った方がいいです。そしてほんとに教祖金光大神の心を心として、信心を頂いて行こうという信心から産まれてくるところの繁盛にならなければ、発展にならなければ、本当の金光教の発展はあり得ないと私は信ずるです。
ね、それをまず皆さん、合楽で信心の稽古をなさっておる皆さんがです、そこのところを心として、と言うことは、教祖金光大神の心を心として、いや天地金乃神様の心を心として、私どもが信心をさして頂く。そんなら、仕方んなかことどん願われんから、健康のことやら商売繁盛やら願えんかと、そうじゃないことが、今日のお話で皆さん分かりましたですね。
問題はその願いに、光が、願いにそのものが持つ光を受けられるほどしの願いにこちらが筋道を立てて行くことだということだというようなことを聞いて頂きました。ね。・・・途中切れ